Trend-Blue

  ~懲りない傾向~

三陸は山瀬の季節

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首都圏以西の人には疎まれるかもしれませんが、16日の昼下がり、田野畑村の気温は16℃。天候も芳しくはありませんが、こんな陽気ですから田野畑レディースのおば様が作ってくれるラーメンがおいしいのです。

地元のFM放送では、岩手県内の著名無名な「ここは美味いソフトクリームの店」なんて特集をしゃべっていました。おそらく盛岡市内あたりだとそれを聞いたらすぐさま近くの店に直行だったのでしょうが、とてもそんな気にはなれません。

しかしいいことばかりではなく、仕事が終わったら高速優先で帰ろうと、岩泉から早坂高原を越えて盛岡に戻るつもりだったのに、内陸は突如のゲリラ豪雨と降雹と一部道路の冠水と信号も停まる停電で、紫波町では避難準備も一時的に案内されたらしく、こちらは再びとぼとぼと45号線で沿岸を南下するしかなくなりました。

道の駅たのはたがどの辺かというと、ここより少し北(久慈よりは南です。写真の位置のことね)

このあと18時まで仕事をして移動ですから、帰宅は23時。この記事はつい先ほど書き終えたという弾丸出張でした。

もう少しっ!

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わくわく♥

わくわく♥

プラム・・・じゃなくてプルーンだった謎の木。
無事に色づきはじめました♪

どっちにしても収穫時期は7月から9月なので・・・ちょっと早い?
早く熟しないかなー。待ち遠しいなぁー。

あと6万キロのハードル

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2015-061515日早朝、BLUEらすかるの積算走行距離が54万キロに達しました。4月10日に53万キロだったので、月平均の走行距離が5000キロ台に戻ってきています。夏の間ならねえ、東北はどこへでもすぐに出かけていけますから、またちょこちょこと距離が伸びていくでしょう(冬は、冬眠したいのよ)

当面の目標までは、ひとまずあと6万キロです。エスクードの括りにおいては、それで暫定1位になります。

2015-0615bこのペースが維持できるとして、記録されているエスクードの最長不倒距離58万7000キロには、来年の夏くらいにたどり着ける計算となりますが、そのあと60万キロを踏んでから、どうすればいいんだろう? とも考えるようになりました。6万キロをあと1年半ほどで走りきる(馬鹿だよねそんなペース)というのは、時間が短くとも物理的な消耗は変わらないですから、わずか1年半でどれだけ状態が悪くなるのか、想像しながら乗らなくてはなりません。

でも今のところ、特別具合の良くないところが無い。

こうやってあきらめの悪いユーザー感覚が醸成されていくのです。

社会資本の意義

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普代村明治29年だと、僕の曽祖父の時代ですから、当時を知る一族はすでにいません。その年の6月15日、三陸地方はマグニチュード8クラスの地震とともに、巨大津波の被害を受けました。その後の誘発地震の中でも、昭和8年の三陸地震も同規模の大被害を出していますが、これまたうちの親父が生まれる以前なので「すまん、岩手のことはわからん」(親父)というのが歴史。

ついでに言えば昭和35年のチリ地震も三陸に津波被害を与えているけれど、これも僕が生まれる前のことで、文献でしか知りません。が、宮古市田老や、ここ普代村の大田名部防波堤は、子供の頃に親父に連れられて見学に来たことがあります。なんせ子供の頃ですから身長が今より50cmは視線を低くしていたはずなので、田老の高さ10mの長大堤防でも要塞のように見えていました。

しかし東日本大震災の津波は、田老のそれは乗り越え、わずか5m高さの上回っていた普代村では防壁として機能し津波被害を防いだのです。

大田名部防波堤は昭和42年頃の完成。建設途上に起きたチリ地震の津波を防いだことで、その有用性を示しましたが、往時の普代の村長が周囲の批判を押し切ってまで、怪物のような防波堤と、これに連携する水門建設の主張を続けたことが、21世紀においても役に立ったということです。

それは明治三陸津波、昭和三陸津波における多大な被害を聞き知っていたことと、その歴史教訓を受け継ぎ伝えるという義務を果したからにほかなりません。

いま、景観を損なうとか、刑務所の壁のようといった批判で、新たな造られたり造られようとする防波堤に、ブレーキがかかったり待ったの声が上がったりの歴史の繰り返しがあるけれど、次に来るであろう津波がそれらを越流したとき、被害に遭う人々が出てからでは手遅れではないのかと感じます。

Team WESTWIN Warriors #085

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da2014-3kTDA2015年シーズンの第二戦開催日ですが、ここんとこ島雄司監督と連絡を取り合っておらず、チーム体勢の様子は不明です。

それというのも、本年度からウエストウインが看板を掲げている香椎マイカーランドが経営権から退き、会社名がウエストウインへと商号変更されるとともに、代表取締役に島監督が就任したことから、けっこうなんてものじゃないほど多忙になってしまったそうです。

今回のレースには、狼駄さんが現地入りして観戦するということなので、そっちのほうが情報が早いかもしれません。

ところで、後藤誠司選手のエスクードがデビューしてちょうど5年になります。リンクはJXCDの模様ですが、ここ数回のTDAでのマシントラブルは、やはり車体の経年劣化による部分が否定できないでしょう。これをどう乗り切るかについて、作戦会議を起こす必要がありそうです。

一方、川添哲郎選手の破竹の勢いで、一部エスクードへの注目度が高まり、シャーシだけとかエンジンだけとかの流用で、なぜかジムニーのボディーを載っけてマシンを繰り出す傾向に留まっていたものが、エスクード自体を買い付ける動きに変化してきたそうです。これは、ただでさえタマ数の少ない中古車市場なのに、ちょっとやっちまったかなあという気がしないでもありません。逆に言えば、ウエストウインだけでなく古くからエスクードを用いてダートトライアルなどに出走している人々の先見性が、いよいよ評価されるときになったということでもありますね。

で、直前情報によれば、今回は川添選手が諸事情のもと欠場。ありゃりゃな展開ですが、こういうときこそ後藤選手に場を盛り上げ、引き締めてもらいたいところです。

と、言ってるそばから後藤選手はフライングとコース内でのテープタッチという二重のペナルティーを受けて4秒の加算。おいおい、そういう盛り上げをするのかとギャラリーをハラハラさせながらの優勝を収めました。

 

つゆのあとさき

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洗車永井荷風のじゃないほうで。日常、車庫で待機状態のぷらすBLUEは、一週間で誇りと花粉にまみれて、まさしくトパーズ色になっちまうのです。

優秀なメカ守りによって、ときどきは手入れしてもらっていますが、そろそろコーティングし直さないといかんなー。

新品。

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慣れないわー、パスカル表示

慣れないわー、パスカル表示

長年(のまちゃんの前の車から)積んであるってたエアゲージがとうとう壊れまして。新月サンが新しいの買ってくれました。

ま、車が車なんだから積んでても不思議じゃないと思うけど。エアゲージのみならず、牽引ロープやら十字レンチ背負って歩く女ってどぉ?

乗り遅れた

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去年の夏の映画なんで、もうすっかり乗り遅れ感あふれちゃってますが、なにしろマグロ食ってばかりだったでっかいトカゲよりはましと言っても、あの人(獣)相風体のゴジラなんてろくでもないと思ってたので、ソフトにも手を出していませんでした。

で、WOWOWでかかるというので録画してもらって今頃初見したのです。そしたら、居るじゃありませんかグランドビターラ。

これは、マグロ食ってたでっかいトカゲ版のオマージュでしょうか? 記憶があやふやなんですが、あちらでも避難する市民群衆のシーンで渋滞の中に初代のサイドキックロングがいたような気がします。

本国版ではVSビオランテあたりだと三菱勢優勢でしたが、メカゴジラ以降ちらちらとエスクードが出ていることを、まさか作り手が意識していたとも思えませんが、このシーンをインサートする条件でアメリカのスズキから広告代でもせしめたのだろうか?

しかし相変わらず日本人とアメリカ人のゴジラへの認識が大きなギャップとして横たわります。核の脅威に関する展開は別のモンスターに押し付けちゃうし、過去の核実験はゴジラ殲滅のための攻撃を隠ぺいする方便とするし。という論壇は昨夏にあちこちで散々展開していたようなので今どき書いてもしょうがないか。

謎の石膏像。

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少年剣士?

少年剣士?

レイドのCP1でしたが。
アニさまが「ここ(建ってる施設)の人もいわれを知らないって言うんだよね」
と言ってましたねぇ。

土台の部分に、新治中って文字があるんだけど。
中学生の卒業生製作か何かかしらん?

冒険者

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伊能図西暦1800年の6月11日(改暦前だと寛政12年閏4月19日)。日本列島の形と大きさ、長さを知りたいという探求心から、伊能忠敬さんは子午線間の距離を測ろうと、蝦夷地へ向けて第1回目の測量調査に旅立ちます。幕府に対しては、帝政ロシアによる蝦夷地の侵略という懸念からの、国防上の地図作成を名目としていましたが、彼が師事していた高橋至時が、自ら行った改暦の暦の精度に満足しておらず、その正確さを得るための子午線1度間の距離測量というのが狙いでした。

至時への弟子入は齢五十。それ以前は天文学ではなく土木事業の監督官であり、また財政再建としての役目がほぼ半生の仕事でした。蝦夷地への測量嘆願が通るまでに3年を費やしており、五十五歳にして第二の人生云々というエピソードは、ビジネス雑誌が繰り返し特集する人物伝です。団塊の人々と接していると、今まさに俺がそれだと、とてつもないバイタリティーを見せつけられることがありますが、それはまあ関係ない話。

1日40里(!)を歩測で調査しながら、伊能さんは3週間で津軽半島の三厩に達していたというのは、つくばーど基地からだったら「700キロ越えだよ7時間だよめんどくさいよ」とか言っていた僕にはピンとこない速度感ですが、伊能さんは海岸線を伝っているわけですから700どころではない。そんな作業を幾度も繰り返し、日本列島の形を描ききるまでに17年をかけているとなれば、もう頭が上がりません。

ただ、伊能さんがその地図の完成を見ることは無く、彼自身は蝦夷への出発から18年後に没しており『大日本沿海輿地全図』が公にされるのはさらにその3年後のこととなります。

現代では国際宇宙ステーションや衛星からのリアルタイムの映像で、日本列島の形がつぶさに見られますが、二百と十五年前、その遠さ近さも併せて、国土の形を知ろうという探求心は、冒険者の所業に他ならなかったはず。

伊能さんが21世紀の人だったら、太陽系はおろか外宇宙の距離まで測れる技術を前にして、どんなことを考えるのか。凡人にはなかなか想像つきません。

あれ?あっ、蛇足なんですが、伊能図(の複写)の写真を探して2004年の書庫まで遡ったんですが、この年既に、国土地理院の地球ひろばには、あの1200万分の1の地球儀が設置されていましたわ。でもこの頃、太陽の位置が筑波山というアナウンスは無かったと記憶してます。