概要については固定ページでお知らせしております。またもや連休突入の夜で申し訳ありませんが、その方が遠方から出かけやすいという声もいただきまして。
開催日時的につくばーど®恒例の月遅れ新年会を兼ねます。ただ、宿泊を伴わないのでカレーライスではなく汁物を出させていただきます。そこで家内から伝言があります。
「人数がある程度わからないと材料分量決められませーん」
ということだそうです。こぞりてご参加の連絡をお願いします。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)の火星衛星探査機打ち上げが、本年予定だったものを二年ほど延期することになりましたが、往ったら帰ってこられないばかりか現地での生命維持にも問題ありありと言われたマーズ・ワン(既に企業自体が破産)みたいなことでは話にもなりません。
その話はうっちゃって、ESCUDO Milage 2024のこと。
先月半ばにカバー写真の公募を行ったところ、告知2時間めにsuuuさんが一番乗りで写真を提供してくださいました。毎年、来るかなー来ないかなーとやきもきするものなんですが、早々とカバーが決まって一安心していたわけですよ。
そしたら、数日して三代目エスクードに乗っているkuroさんから、実際にはトリミングしてしまいましたが明け方の青い空と夜明けのシーンが送られてきてさあ大変(笑) せっかく投稿してもらったのに「もう締め切られました」と言うのもなんだし、ページのデザインをいじることにして採用となりました。
で! この写真は新たにタイトルを刻んだヘッダーとして使わせていただいたのですが、その加工作業中にTA01Wさんからもカバー写真候補が届いてしまうという大焦りな事態に。
むー・・・ここまでは何とかせねばなるまい! TA01Wさんには申し訳ないけれど、ページ末のアンカーとしてトリミングしたものを使わせていただいております。suuuさんの作品はカバーサイズで送られてきたので文句なしにカバースチル。あとのお二人はオリジナルサイズでしたので、天地はカットしましたが横幅を活かすことができました。ありがとうございます。
十二支の干支の中で、竜は唯一、想像上の存在です。辰年は陽の気の脈動によって万物が振動し活力旺盛する、成長し形がととのう年とされています。超自然的とはいえ想像上の存在ごときにそんな効能があるのかよと思うのですが、身近で突然意外なことが起きたり、急に思いついて何かしらを始めることを「足元か竜が上がる」と言い、要は気持ちの持ちようなのかと半分納得するわけです。
竜の視点から見たらきっと「行き当たりばったりで暮らしてやがるくせにどうにかなってるだろうよ」などと言われそうなのがつくばーど®の在りようです。それでもいろいろなものが重くのしかかってきているのが現実。ここで足元に潜む超自然的想像の存在に頼るか、地に足をつけて前を向くかを決めなくてはならないのが人の辛いところです。
ぶつぶつ独り言ちていても2024年は始まってしまいましたから、今までどうにかなってきたならここからもどうにかなるんじゃないの? という能天気さを捨てることも無いのです。と・・・なんともいい加減な一年の計を立てることにしました。自分の力量を願みず強大なものに抗うとか、大それた計画や無謀なことをすることを「竜の髭を蟻が狙う」とも唱えますが、何も自分で自分を蟻呼ばわりしなくたっていいじゃないですか。
そのような気分で、遂に無謀で大それた計画の後半戦に挑んでまいります。
などと能天気なことをやっていた矢先、令和六年能登地震が発災し、極めて広範囲な津波と局所的大地震の被害が時間を追うごとに拡大しています。仙台での被災を思い返すと、それこそ自分には何一つできない無力さしか蘇ってきません。被災された地域の方々が少しでも平穏を取り戻せますようお祈り申し上げます。
長らくサイドキック2号車へのパーツ供給のために保管されてきた1号車を解体撤去すると、和邇さんから知らせがありました。92年式と古参の個体でしたが大役を果たして余りある活躍の末の余生でした。
「年末、比叡山にて阿闍梨に法要をお願いしてきますよ」
このエスクード(の北米仕様)と和邇家には随分と支えていただきました。
1号を初めて目にしたのは2000年頃の伊豆のモビリティパークだったかもしれませんが、手持ちの写真には残っておらず、最初の撮影分はちょうど20年前の南蔵王のものでした。うちの娘らが和邇家のお嬢たちと出会ったのも、このキャンプのことでしたが、さすがの20年、この頃走っていたclubES登録のエスクードは1号の退役で、2号とV3を残して失われてしまいます。まさしく月日は百代の過客というものです。まあ昔話ですから多くは書きません。
2015年には既に2号が復活してつくばーど®の行事に参加してくれていましたが、この2号もコンプレッサーの故障でその動向が心配されています。形のあるものに対して永遠という継続性を求められるのは、若い頃の無謀な情熱なのだなとも思わされます。第一、人様の車ですもん。でも和邇さんはたぶん、その人様の部活動運営のために車を存続させようともがいてきた人なのです。1号を見送るとともに、2号の修理がうまく行くことを祈らずにはいられません。
すっごくわざとらしいタイトルですが、例えばこういうキーワードで検索しても「エスクード中古車 九十万円」なんていうネット情報しかヒットしないものなんです。それだけ想像もできないバカげた話なんだと思います。
一時は間に合わないかなと諦めかけましたが、なんとかエスクード誕生35周年のうちに90万キロまで走りきることができました。
一夜明けて12月24日現在、それはもうちまちまとした距離しか伸びていませんが、既に「残り10万キロ」ではなくなっています。もちろん残っている道のりはとんでもなく長いことに変わりはありませんし、長い距離よりも長い年月をお乗りのユーザーさんには敵わないのですが、僕だって自慢したいときもあります。
世の中にあってはバカげた話ですが、もろ手を上げずにはいられず、ここからの道のりに呆然としてしまう心境です。
写真にはTA51Wが写っていますから97年以降のもので、2000年暮れに閉店した店なのでそれより前にオーナーが変わったときの撮影のはず。先代らすかるもほぼノーマルです。この喫茶店「FOOTMARKS」が、僕の20代から30代にかけてのセーフハウスでした。お店が開業したのが、40年前。BLUEらすかるに貼ってある足跡マークは、この店のCI。かつては日本ジムニークラブ筑波支部(現存せず)の事務局にもなっていました。2000年12月23日に閉店しました。
セーフハウスとか言いながら家内とデートすれば飯を食いに行くし、結婚披露宴の二次会で世話になるし、オーナーの姉御には霰や霙が産まれたときにお祝い貰うしの、どこが隠れ家なんだという店なんですが、今でいうドリアを「ライスグラタンと呼べ」とか、誰が食うんだこの馬鹿みたいな辛さのドライカレーを「こんなの中辛以下だ」と豪語する姉御でした(誰が食うんだと思ったら家内が好んで頼んでいた)。姉御・デコ姉は霙が産まれた後に病気で、若くして亡くなりました。
姪御さんや知人のお嬢さんが店を引き継いで、開業から17年間看板が掲げられましたが、当時入り浸っていた常連もいなくなり、営業時間帯も我々の余暇時間とは合わなくなり、閉店に向かいます。ジムニーとの邂逅は姉御の亭主経由でこの店、最初のエスクードをV6に乗り換えてしばらくしてから「なんかいつも直4ショートがいるなあ」と思えば、僕の物書き師匠の奥方だったという、縁を取り持つ店だったのです。齢を食うとこういうのばかり書き出しますねえ。
半年に一度の超精密検査ウイークで、先ほどエレベーターに乗ったところ、最後に小柄なご婦人が籠に入ろうとすると定員オーバーを報せるブザーがなりました。
エレベーター内は それほど混んでおらず、小学生くらいの女児を含めて9名。
操作パネルには「定員11名 750kg」の文字。
地下の駐車場に繋がるエレベーターは同時に霊安室のある階にも停まります。
さては目に見えない “ 誰か ” が乗っているのか?
エレベーター内に恐怖と戦慄が走った その時・・・・・・。
無垢な瞳の女児が母親に問いました。
母親は冷静な声で答えました。
集中する九つの冷たい視線に私は思わず「どうぞ・・・」と ご婦人に場所を譲ってエレベーターを降りました。
検査フロアに取り残された私は閉じたエレベーターの扉に向かって消え入るように呟きました。
・・・いやもう言葉の暴力に言葉もありませんが、「貴女こそデーモン族に憑依されてませんか?」(憑依され体を乗っ取られるとデーモンの体重分が大幅に増加する)と口に出さないところが和邇さんです。